1.当屋敷の歴史−神社から家老屋敷へ
「見聞自覚集」によれば、室町時代以前に、当屋敷は神社であったらしい記述がある。また、大内氏の時代になり、横山(注:錦帯橋より山側を横山という)全体は不動山永興寺の境内であり、現在の香川家長屋門の面した通り(江戸時代は中小路と言った)あたりに横山町(よこやままち)という門前町が形成され、錦川に近い当屋敷に目代(注:目代とは国司の代官の意)が配置されていた。
慶長5年(1600)9月15日の関が原の戦いで、毛利勢の属する西軍が破れたため、吉川広家は出雲の富田(12万石)から岩国(3万石)へ転封となり、同6年より領内統治の拠点として横山に城や居館などを築き、城下町の町割が行われた。吉川経家の嫡男、和泉守経実も同行してきて家老の一人となり、横山の廓内入口に屋敷が与えられたのが、当屋敷である。
現在も屋敷の内に、大きな庭石があるが、これは、その昔の目代の所にあった石との記述が残っている。この上に火のついた火縄などを置くと、そのまま消える「火伏の石」と昔から言い伝えられてきたという。
2.土蔵と屋敷神
当屋敷に残る土蔵の棟札によると、安政6年(1859年)6月28日に吉川采女実堅(吉川十郎兵衛直堅)が建立したとある。
嘉永6年(1853年)正月23日は朝から空が灰で曇り、午前10時頃に強い地震があった。安政元年(1854)11月4日は全国的に大地震に見舞われ、岩国でも大騒ぎとなった。
安政2年1月18日午前8時頃にも大地震があり、普済寺山や妙覚院山の墓地の被害は目を覆うばかりで、地割れができ、1月20日は地鳴りを伴い、3月20日まで余震が目立った。この時、家老の益田勇記の家の門長屋と練り塀が大破し、香川左金吾の家の土蔵2つが大破した。 安政5年12月2日には、午後8時頃から激震に襲われ、殿様などは仙鳥館の小屋掛けへ避難した。仙鳥館の避難所は安政元年以来、常設されてきたものと思われる。余震は12月7日に鎮まったが、この一連の地震で御館の石垣、堀の石垣に崩れた部分があり、12月14日より修繕が始まった。このように安政5年までは大地震が続いた。家老吉川采女の土蔵(当屋敷土蔵)も安政2年の地震で壊れ、地震が静まって安政6年に再建されたものと思われる。
当屋敷の後方に光霊明神と歓霊明神を祀った小社が2社あり、安永7年(1778)7月24日に名越摂津守長盈が再建した時の棟札が残されているが、現在の社殿が安永7年のものか否かは不明である。
名越摂津守長盈は白山神社の神官であり、大内氏の時代から白山神社の神官を勤めてきた家で、多々良姓を持つ。この屋敷神に名越氏が深くかかわっていたことは、吉川氏が白山神社の氏子であったためか、吉川広家が入ってくる前から関わっていたためであろう。
光霊明神の祭日は8月3日、歓霊明神の祭日は10月2日とある。「光霊」とは霊魂の尊称であり、祖宗の霊である。吉川氏が創建したものであれば吉川経家又はその家の歴代を祀ったものと考えられ、それ以前よりあったものならば、目代職にあった人の始祖を祀ったものといえよう。
歓霊明神は光霊明神と対をなすものと考えられるが詳細は不明である。
3.当屋敷の歴史−2−明治になり戸長役場と国立銀行へ−
廃藩時の当屋敷の当主は、吉川十郎兵衛直堅(もと実堅)で、ペリー来航による幕府の騒動の中で、防衛に動員された毛利勢の一員として岩国領からも出動を求められ、異国船警衛方御手当惣奉行として、嘉永7年(1854)に相模国長井村荒崎へ出動したこともあった。元治元年(1864)から明治元年(1868)まで職役(行政の責任者)を勤めた。
明治7年(1874)1月に、横山の異人館に置かれていた岩国支庁が廃されて、横山・川西村は第九小区とされ、戸長役場が置かれ、明治9年3月に戸長役場は小区扱所と改められた。同年12年1月に大区、小区が廃されて町村が置かれた時、横山村戸長役場が旧家老吉川十郎兵衛の屋敷(当家)の一部を借りて設置された。以降、川西等の連合、それの解消等を経ながら、明治16年まで、戸長役場を置いたものと思われる。
同17年1月に横山・川西・平田の3村が連合して川西に戸長役場を置いたので、横山の戸長役場は廃止された。
一方、明治5年に発布された国立銀行条例が同9年8月に規制を大幅に緩和して改められたことにより、全国に次々と国立銀行が設立された。岩国でも旧岩国藩士ら88名から金禄公債(先祖伝来の家禄が秩禄処分で公債化されたもの)を集めて資本金5万円(1株50円、1000株)で第百三国立銀行を設立し、同11年10月23日に開業免状の交付をうけ、12月2日より営業を開始した。
銀行の建物としては旧家老吉川十郎兵衛の屋敷半分(門長屋のある部分)を購入して、ここにあった建物を利用した。地域経済の未熟さや、義済堂と賃金業務が競合していたことなどから経営に行き詰まり、同26年に安田銀行に買収されて終わった。銀行の跡には、明治29年11月に岩国税務署が入り、大正14年2月まで存続した。
銀行が買った残り半分の家屋敷は明治10年代中頃には旧藩主吉川家からの借金の抵当に入れられたが、吉川十郎兵衛直堅はそのまま住んでいた。しかし、同20年家を出て、吉川家の御塔下の屋敷に移って、御塔番を勤めたが、十郎兵衛は同19年10月から35年10月に死去するまで吉香神社社司も勤めた。
現在、吉川十郎兵衛直堅の時代の建物は、崩れかけた門長屋の他は、土蔵と屋敷神しかないと思われる。
4.吉川経家弔魂碑
吉川経家弔魂碑は、東京の吉川家に打診したところ、「建設予定地は吉川経家の子孫、吉川十郎兵衛の屋敷跡であり、吉川経家を祀ることは有意義であろう」との意見により、永田新之允が中心となって吉川経家の忠霊塔を建てることとなり、その可否を町内の各種有志130余名に諮った。
鳥取城から12個の城石をもらい受けて台石に使用し、碑文は瀬川秀雄が書き、碑表の「吉川経家弔魂碑」は吉川元光の筆により、昭和14年10月25日に除幕式が行われた。10月25日は経家の命日で、籠城者の命を助けるために切腹して果てた日であった。
|